学生の頃憧れの場所があった。きっかけは書店で手にした一冊の本。
「京都の喫茶店」みたいなシンプルな名前の本で、帯に書かれていた売り文句は「京都旅はこの一冊が有れば」といった内容だった気がする。
京都=喫茶店というイメージは僕の中でもあったし、ちょうど京都への旅行の予定があったから何かガイドブックでもと思って買った。
本を開くと老舗から新しい店まで様々な喫茶店の情報が書いてあり、京都は想像していたよりもずっと“喫茶店の街”なんだなと思った記憶がある。掲載されているそのほとんどが知らない店ばかりだったが、それでも「イノダコーヒ」だけは東京で暮らす僕でも知っていた。
▲「イノダコーヒ本店」。“コーヒー”ではなく“コーヒ”と表記するのは
元々漢字表記の珈琲を“こうひ”と読んだことが由来らしい。
京都の喫茶店といえば?と質問すれば誰もが口を揃えて「イノダコーヒ」と答えるんじゃないかという程に代表的な存在である老舗の名店。
創業は1940年とその歴史は80年を超える。
誰が言ったか「京都の朝はイノダにいかないと始まらない」といわれるほど、京都人にとってはなくてはならない存在らしく、観光シーズンには行列ができることも珍しくない。
いま思い返しても何故本を読む前からイノダコーヒの事を知っていたのかは思い出せないが、
とにかくこだわりの詰まった素敵な老舗の喫茶店というイメージが頭の中に既にあった。
▲本店の本館は天井が高くホールのような空間が広がっており、
大きなガラス戸越しには中庭を眺めることもできる。
文庫のガイド本一冊を持って訪れた京都の街。実際に訪れたイノダコーヒは本の中に書かれている風景そのままだった。
初めて本店に訪れたのは開店間もない朝の7時過ぎだったと思う。
行列に並ぶのが大の苦手なので朝一なら巻き込まれないだろうと踏んだのである。
作戦は功を奏し、到着してからは無事並ばずに席まで案内されたものの店内を見渡すと既に地元の客で埋まりつつあったから驚いた。
不思議なことに店内は活気がありつつも、静かで他の客の存在が気にならない。
吹き抜けのホールのような空間がそうさせるのかホテルのラウンジで食事をしている時に少し似ている気がする。
食器の触れる小さな音や、客同士の話し声。店員が注文を取る時の声が心地の良い音として広がっていて、
そこに静寂がマナーとされるような厳しさは感じられない。
注文を終え、食事が運ばれて来るのを待っていると隣の席の老夫婦から「新聞どうぞ」と朝刊を手渡された。
やはりここは訪れた人がその時間を楽しむ場所であり、変に気を張ったり背筋を伸ばすような空間ではないようだ。
普段は新聞など読まないがこの時ばかりは不慣れな手つきで折り畳みながら朝刊を読んだ。
▲左手はハムサンド、奥にはレモンパイ、右手にはプリン。
イノダコーヒの目当てはこの空間だけではなかった。本の中に書かれていて最も心惹かれたのが“ハムサンド”だ。
ハムサンドの構成は至ってシンプルでハムがサンドされているものと、
ハムとキュウリがサンドされているものがそれぞれ3切れずつの計6切れにピクルス、オリーブが添えてある。
本の中ではこのハムサンドとイノダコーヒの名物である「アラビアの真珠」をお決まりで注文すると書いてあったため、僕も当然同じ注文をした。
※「アラビアの真珠」は砂糖とミルクを入れて飲むことが推奨されているイノダのブレンド珈琲。
口に入れるとハムがしっとり肉厚で美味しい。キュウリが入っている方は食感が変わってこれまた美味しい。
本の中ではキュウリに少し塩をかけてから食べるのも美味しいと書いてあったため、それも真似をしたがこれまた美味しかった。
付け合わせのピクルスは酸味が強いため、口の中に残る油感をリセットしてくれ、
逆にオリーブは優しい味付けでこの一皿のバランスを取ってくれる。
ハムサンドに関心のなかった人生が一変した瞬間だったかもしれない。
▲左手はアラビアの真珠、右手はハムトースト。
新幹線で2時間半もあれば到着してしまうとは言っても東京で暮らしているとやはり京都は少し遠い場所。
本店に訪れて以来京都に行けない分を取り返すように東京駅の大丸店には何度も通った。ハムサンド以外にも限定メニューを含め、ありとあらゆるメニューを食べ尽くし、初めてイノダコーヒの本店を訪れてから約10年の時が過ぎた今でも一冊の本の中にあった憧れの場所は訪れる度に僕をときめかせてくれる。
悲しいことにハムサンドは今年1月4日のメニュー改定で無くなってしまったため、最近は“ハムトースト”を頼むことで気を紛らわせている。
改定の事実を知った時はなかなかにショックを受けたものだが、ハムトーストはハムサンドにはないサクッとした食感が楽しく、付け合わせのポテトサラダも美味しい。少し塩を振って食べるのが好み。
本店での出会いから僕のイノダコーヒでの定番はアラビアの真珠とハムサンドと決まっていたが、これからの10年はハムトーストと仲良くしていこうと思っている。
何かに夢中になったり、憧れを抱くきっかけというのはいつどこから始まるのか予想もつかない。
あの日手にした本も今はどこに行ってしまったのか見当たらなくなってしまったけれど、
あの時の気持ちと記憶は僕の中に深く刻み込まれている。
そんなことを思いながら今日もまた本を手にしたあの日のように憧れの場所で朝を始めようと家を出た。
text: Masato Okada
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